10.20.2009

セルフポートレート


 このセルフポートレートは、私が大学でフランス語でランボーを読み出し、やっと読めるようになったと自覚した少し後で撮影しました。

 フランス語で読んだ「イリュミナスィオン」は、日本語の翻訳から夢想していたイメージの氾濫ではなく、イメージが崩壊するレアリテの氾濫として、私の前に立ちふさがってしまいました。消えてしまった脳内画像を再生するには、非言語的取得が必要と考えました。その方法として写真が選ばれたのは、私が子供の時から親しんでいたためでしょう。もちろん、同時にランボーを映像化したいとも考えました。主人公の見えない映画です。つまり、ランボー視点の映像のみ(あるいはランボーとヴェルレーヌの2視点のみ)で構成された映画。しかし、映画は特殊な機材が必要でもあり、私ひとりの手に負えるとも思えませんでした。ビデオも今と比べれば高価な割りに画質が不足していると思いました。写真はひとりでも容易に手の届くところにありました。写真を、被写体・構図・ライティング等の一連の定型化したシーンではなく、今までには見たことが無い画像、つまり既視感の無い画像として撮ることはできないかと、中学時代に考えたことも選択の背景にあったでしょう。
 私の中学時代に、父は研究に当時ニコンから発売されていた全周魚眼レンズを使用していました。それを思い出してか、人の眼とは違う光学システムで外界から自分という個体を見ようと、覗き込むような気分で全周魚眼レンズでセルフポートレートを撮りました。描写も物の質感を拒否するために、トライXフィルムを使用し、メトール単現像液で40℃くらいで長時間(といっても40分から50分ぐらい)素粒子現像をしました。



 大学卒業後、私は東松照明氏主催「ワークショップ写真学校」の、横須賀教室で写真の作り方を学びました。横須賀巧光氏はデジタル写真に挑戦せずに他界されました。彼の晩年の時には、当時のデジタル技術は、彼の映像の道具としては未熟だったかも知れません。でも、彼は授業で「やがて眼鏡のある部分を押せば、眼で見えたものがそのまま定着される時代がきっと来るよ」とも言っていました。私は、デジタル写真の究極の姿として、この言葉をよく思い出します。
 セルフポートレートの初めの試みのしばらく後、横須賀さんのアドバイスもあり、全周魚眼レンズで自分を1年間毎日覗き続けてみましたが、そこには、もう多くのものは残されていなかったように思います。個は個であり、日常も文字通り日常であり、他には何もないことを写すしかなかったのかも知れません。



 東松さんには「太陽の鉛筆」というタイトルの写真集があります。言葉の意味は「光(太陽)が描く物」という意味でしょう。彼は写真は「真」を写す物ではなく、その時に自分が立ち会った「今」を写す物「写今」とも言っていました。私は、ぱっと目で見たとおりのメモ書きという「紙とエンピツ」の写真と、意図的に構成しライティングして撮影する作り写真「画」とを、どちらをどのように追求すれば良いのか、迷いながら撮影し続けて来ました。しかし、デジタル化とデジタルカメラが発達し、今ではかなり多くの部分で私の悩みを消してくれたと思っています。根本的な問題は変わっていなくても、デジタル化により選択肢と画像処理の自由度が遥かに拡大し、悩みが軽くなりました。

 話を元に戻しましょう。これらのセルフポートレートは、なんとなく興味本位というか、どんな風に写るか実験的に撮影しました。ランボーのセルフポートレートが直接のヒントではありません。ただ、ランボーがハラルで撮ったセルフポートレートは、本で見て知っていましたので、ヒントのひとつではあったと思います。。
 この写真を撮ってから、もう40年近い時間が経ってしまいました。世の中は変わりました。日本は高度成長を成し遂げ、成熟した国となりました。現在、100年に一度の経済危機と言われながらも、実存も自己救済も大きな文学的テーマとして取り扱われないのは、それだけ豊かになったことだと受け止めています。他方、デジタル技術が進み、グローバルな文化の共有体験も可能になりました。
 そして、フランス語でランボーを途切れながらも読み続けて40年経ってしまいました。「イリュミナスィオン」は、ほぼ読了していますが、翻訳はまだ完了していません。仕事や用事があれば、躊躇せずに作業を遅らせてきました。最近は生活環境の変化で、ランボーそのものが私たちの生活からは遠く離れてしまったように感じる時が増えました。ふと、図書館で見つけて借りてきた鈴村和成氏のメタフィクション「ランボーと8枚の写真」(2008年)を読んで、私自身のセルフポートレートを思い出しました。



「 普通の体格をした「男」よ、肉は
果樹園に吊り下がった果実ではなかったのか、 ― おお
子供っぽい日々よ! 体は浪費すべき宝ではなかったのか、 ― おお
愛することは、プシュケの危機か力か? 大地は
王侯と芸術家にあふれた斜面だった、
そして血統と種族が君たちを罪と喪へ
押しやった。この世は君たちの幸運と君たちの
危難。だが現在、あの苦労は報われ、君、君の計算と、
― 君、だが現在、あの苦労は報われ、君、君の計算と、
― 君、君の苛立ちは ― 固定されても、全く強いられてもいない、
君たちの踊りと君たちの歌声にすぎない、とはいえ
発明と成功の二重の出来事 + ある理由だが、
― 心象の無い宇宙における友愛に満ちた慎み深い
人類には、 ― 権力と法律が今ようやく評価された
踊りと歌声を反射している。」
(「青春時代 Ⅱ」/「イリュミナスィオン」/ランボー著/門司邦雄訳)

 ところで、なぜランボーは本土よりアフリカに高価な写真機材を取寄せて、わずかな写真を撮影しただけで放棄したのでしょうか。母には手紙で、珍しい写真は高価な価格で販売でき、ひと財産作れるといった理屈をこねていますが、これは彼なりの言い訳なのでしょう。私がセルフポートレートを撮影した頃既に、ランボーは自分自身を他者として画像(写真)に定着してみたかったのだと、勝手に了解していました。ランボーは高価な写真機を手にしてから初めて、自分が撮りたいと夢想していた現実が退屈な日常でしかないことと、被写体が自分しか無いことに気付いてしまったのだと。未知だから実現してみたいという渇望は、水洗不良?等で不完全な結果にせよ、見てしまうことにより、輝きを失ってしまったのではないかと。写真に写った人物は彼自身がかって求めた「普通の体格をした「男」」の、詩後のいくつかの現実の姿でしかなかった。そして、母に送ったことで彼自身の写真への欲望は完結したのではないかと。
 ボードレールの「旅」は、マキシム・デュ・カン( Maximre du Camp )に捧げられていますが、ランボーの生まれる2年前に、デュ・カンは中近東を旅行した時の写真集を刊行し、それがフランスにオリエント旅行への憧れを巻き起こしました。ランボーの頭の中にも、この時代の熱病の残滓があったことでしょう。

8.08.2009

ランボーの「体感 (サンサシオン)」と麦




         体感(サンサシオン)

    夏の青い夕べには、ぼくは小道を歩くんだ、
    麦の穂に刺され、雑草を踏む足元は涼しく、
    帽子も被らず、夢見心地で、
    額は風に吹かるままに。

    ぼくは、何も語らない、何も考えない、
    でも、ぼくの心には限りない愛がこみ上げ、
    遠くに行こう、はるか遠くまで、ボヘミアンのように、
    「自然」の中を、― 女と一緒のように、幸福に。

                          1870年3月


 19世紀フランスの詩人、アルチュール・ランボーの現存する最初のフランス語詩は、この「体感」です。邦訳では、永井荷風の「そぞろあるき」が有名です。本当に久し振りに訳しなおしました。今までに、捉えなおしたことを反映させたかったためと、もうひとつは、麦について語りたくなったからです。

 8月8日のネット版産経ニュースによりますと、「(高校生の)科学五輪で日本が躍進」の記事があります。特に茨城県つくば市で行なわれた生物学五輪では、日本人初の金メダル受賞者がでたそうです。子供の頃から、生物学に近い環境に育った者として、嬉しく感じると共に、さらなる発展を期待させてくれます。

 私は、子供の頃から自分の置かれた不条理を考えながら、そして、ランボーを読みながら、撮影をしながら、生活してきました。今年の5月に、母が他界しました。「今日、母が死んだ。昨日かも知れない。」(『異邦人』/アルベール・カミュ) そして、私も、私の不条理を語る時が来たよう感じています。

 詩に話を戻しましょう。「体感」と訳したサンサシオン sensation は、いわゆる感覚ではなく、「感覚器が刺激を受けて直接引き起こされる意識内容(ロワヤル)」です。堀口大學は、かってこの言葉を「感触」と訳しました。英語読みでは、センセーションとなります。わくわくする体感を表す言葉として、今のフランスではスカイダイビング、パラグライダー、サイクリング、カヌーなどのスポーツ・イベントのキャッチコピーとしてよく使われています。チビのランボーは、夢想に生々しい「感触」を与えるために、「体感 Sensation 」というタイトルのレトリックを使用したのです。

 心は背伸びをした、体格はまだ背伸び前のランボーの気持ちを考えながら、もう一度、この詩を訳し直しました。この詩は1870年3月に書かれています。まさに、東風(こち)吹かば、ですね。地球温暖化以前の今よりさらに寒さの厳しいフランス北東部の少年にとって、高緯度地方の夏の長い青い夕暮の時は、さぞや夢想を誘うものだったことでしょう。そして、一面の麦畑、これもやはり夢想の広がりだったと思います。「デンプンと泥を食らって、地酒に地ビールを飲んでる田舎、ぼくには懐かしくないね。」と、パリに出たランボーは友人ドラエーへの手紙で故郷、アルデンヌをこう書いています。例えば、当時のアイルランドではジャガイモが主食でした。オランダ生まれのゴッホの絵で見るように、小麦は太陽の恵みの豊かさの象徴でもあったと思います。余談ですが、私と妻が、妻のオーストリーの友人を訪ねてウィーンに滞在した時に、彼女の母親はジャガイモの団子とブタの大きなばら肉をたくさんのバターで煮た料理を出してくれました。特別なお祝い事の時に作る郷土料理で、今ではほとんど作らないということでした。

 麦の穂に刺されて Picote par les bles (アクサン省略、原詩はこちらを)という言葉は、私には長いこと不思議なままになっていました。この詩を読む限り、夏(初夏)ですから麦は刈り取り前で背が高いはずですが、いったいどの位置なのだろうかと。私は、なんとなく、顔に近いイメージを持っていました。それが、第2節の、最終的には女性への夢想にまで繋がっているはずです。でも、いくら、ランボーがまだチビだって、そんなはずはない。小麦の背丈が、そんなに高いはずはないと。

 その第1の回答は、DNA二重螺旋の発見者であるジェームス・ワトソンとアンドリュー・ベリーの共著である『DNA』(青木薫訳、2003年12月、講談社発行)にありました。ここでは、北欧の画家ブリューゲルの作品「穀物の収穫」を例に出し、「16世紀当時の小麦は1.5メートルほどの高さがあった。それ以降、人為選択によって丈は半分になり、収穫が容易になった。」という説明がありました。

 19世紀のフランスのアルデンヌではどうだったのだろうか。インターネットで調べてみましたが、私の検索方法が悪いのか、草丈の数値データは得られませんでした。今では世界的なネット版百科全書となった Wikipedia には、奈良・平安時代には麦は馬の資料としても使われ、稲や栗ほど食用作物としての認識が広まっていなかったという、興味ある記事も見つけました。そして、「小麦農林10号」「緑の革命」の項目に、(間接的かも知れませんが)おそらく第2の答を見つけました。
 日本の岩手県で背の低くなる半矮性遺伝子を持つ品種の交配が行なわれ(1925)、農林10号として登録されました(1935)。これを太平洋戦争後、占領軍(GHQ)がアメリカに持ち帰り、「1961年には、小麦農林10号を親としたコムギ短稈多収品種ゲインズが育成された。」( Wikipedia )と書かれています。さらにこの小麦はボーローグによりメキシコ品種と交配され、草丈90~120cmの短稈多収品種が生まれ、後に「緑の革命」を引き起こし、その功績によりボーローグらは1970年にノーベル平和賞を受賞したと書かれています。
 おそらく、19世紀当時の北東フランス、アルデンヌ地方の小麦の草丈は、背伸びが始まったばかりのランボーの顔の下に届く位ではなかったのかと、空想しています。

 さて、この『DNA』には、もうひとつ興味をさそう記事がありました。ソ連にルイセンコという学者がいて、その学者の「ミチューリン農法」に指導された新しい集団農業形態があることを、小学生当時の我が家に下宿していた早稲田大学理工学部の学生から聞いていました。当時、日本でも一部で流行ったというこの農法と遺伝学者ルイセンコについては、最近は全く話題になりませんので、すっかり忘れていました。ところが、『DNA』によりますと、ルイセンコは「枝分かれする小麦」を開発し、スターリンに捧げたそうです。「その小麦は、1株からの収量は多いものの、まばらに植えつける必用があるため面積辺りの収穫量は減るのだった。」と、この本には括弧で括られた注釈がついています。さらに、「彼こそは、当時のソ連で何百万人もの人たちを飢餓に陥らせた張本人なのだ。」とも。政治の問題かも知れませんが、なぜ、単位面積あたりの収量が予め予測されなかったのでしょうか。

 麦はイネ科です。もはや、いつだったのかは思い出せませんが、東大の植物学教室の隅の実験棟で、四角柱のガラス筒を黒い紙で覆い、上に蛍光灯の照明を付けた装置何本かで、稲の栽培実験をしていたことを記憶しています。その装置が印象的だったので覚えているのでしょう。何の実験かと父に聞いたところ、父は、稲の生産性が高いことを実験していると教えてくれました。どうして生産性が高いかは、全く語りませんでした。父は私に、ほんとうにたまに、ポツンと点だけ教えてくれました。君自身の頭で考えなさい、と。

 写真は、研究のためパキスタンに赴任中の父と母です。

宗形さんの写真展「川越」、開催中です。


 告知が大変遅くなってしまいましたが、川越市在住の民俗写真家、宗形慧さんの個展が、川越市の蘭山記念美術館で開催されています。蘭山記念美術館、宗形慧フォトギャラリー「鬼神のこころ」蘭山記念美術館の両ホームページも、eyedia.com で作成しています。
 今回は、展示したモノクロのオリジナルプリントを、私が作成しました。ネガからスキャンし、フォトショップで調整し、顔料プリンターでコットン紙にプリントアウトしました。銀塩フィルムで撮り続けている宗形さんの写真のーを、いくらか新しく再現できたと思っています。近くにお寄りの際は、小江戸川越の観光も兼ねて、ぜひ、お立ち寄りください。宗形さんのサイト「鬼神のこころ」に200円割引券(通常500円)がございますので、是非ご利用ください。

8.06.2009

散形花序


 この写真を撮影したのは、今年の6月でした。今年の5月に他界した母も、かっては入院し手術を受けたこともある病院の裏を抜ける小道に面した、小さな市民農園の片隅にたくさん咲いていました。ランボーの「思い出 Memoire 」の光景とはかなり違うかも知れませんが。

  マダムは農作業の屑が雪のように舞い落ちる隣の草地に、
  えらく真っ直ぐに立っている、手には日傘 ombrelle を持ち、
  散形花 ombelle を踏みつけて。(「思い出」/ランボー)

 ウドかセリの仲間の植物と思われるこの写真の花(草)の個別の名称は、植物の名前に疎い私には分りません。でも、この花の形は複散形花序と呼ばれるものでしょう。散形花序は、英語では umbel そしてフランス語では、ombelle 、花序軸の先端に有柄の花が多数集合するものとロワヤル仏和辞典にあります。花の柄が放射状に広がり、散らばり、その先に花をつけているものが散形花序(さんげいかじょ、さんけいかじょの読みもあります)。いったん枝分かれした先で、さらに枝分かれしている場合は、複散形花序と呼ばれるようです。辞書によっては、散形花と書かれたものもあり、翻訳では花のイメージを強調するために散形花という訳にしました。なお、Wikipedia によりますと、傘形花序とも呼ぶようです。英語では umbel そしてフランス語では、ombelle となります。そして日傘は ombrelle です。影 ombre から来た言葉ですが、傘状の形態も加味されているのかも知れません。いわゆる雨傘は、parapluie 雨守り、ですね。日傘 ombrelle は、今でこそUV加工の黒もたくさん見かけますが、ランボーの時代は白系統が多かったと思います。モネの有名な「日傘をさす女」のシリーズでは、ほとんどが影として描かれ、周囲の色彩、例えば草の緑の反映とかを強調した色彩になっていますが、白に近い表面が描かれている絵もあります。

 ombrelliferacees ( ombrellife´race´es )は、セリ科です。一度は、セリの花とも訳してみました。その方が、花のイメージが取りやすいと思ったからです。でも、「丸い膨らみをもった白い花の集まり」がイメージできないので、散形花という訳にしました。詩「思い出」の散形花は、セリの花ととってもイメージ的には理解できます。例えば、草地の脇の水辺に自生しているクレソンの花とか、「谷間に眠る人」との共通のイメージととることもできます。写真のような背の高い複散形花序をそのまま踏みつけるのはちょっと無理です。しかし、ここではむしろ、日傘との音合わせとともに、この詩以前に書かれた韻文詩「母音 Les Voyelles 」に出てくる「散形花」のイメージ、「丸い膨らみをもったドーム状の白い花の集まり」、つまりは乳房の比喩であり、性としての女性の象徴的意味として使われたのではないかと思います。

  E は靄とテントの身震い、
  高慢な氷の槍、白い光線、散形花の震え。(「母音」/ランボー)

 「思い出」に、象徴的な言葉遣いが多いこと、ほぼ同じ内容のヴァリアントが「エドガー・ポーの 呪われた家族。」というタイトル、そして詩の暗示する内容からも、母性ではなく女性という意味の象徴として、「散形花」が使われたと思います。ランボーの母、ヴィタリーは、夫に去られ、やがて故郷ロッシュの農地を受け継ぎ、小地主のマダムとなり、日傘を持ち、優秀な子供達をそばに従え、そして「女性」を踏みつけて、誇り高くふんぞり返って立っています。

 今でこそ、さまざまな園芸花がありますが、ランボーがアルデンヌの野の花に乳房のイメージを見出したことは、当時のパリのフラワーブームとの距離を感じさせてくれます。

「花序」については、Wikipedia をご参照ください。

4.15.2009

france2 ミュゼ・ランボー他

france2 の culture で、
ランボー、ヴェルレーヌ、プレヴェールのビデオを見ることができます。

ミュゼ・ランボーとミュゼ・ヴェルレーヌの特集
VOIR LA VIDEOをクリックしてください。
ビデオでは、ミュゼ、写真、原稿、遺品などと、部分的ですが朗読も聴くことができます。
http://cestauprogramme.france2.fr/index-fr.php?id_article=2856&page=article

プレヴェールの特集 5作品の朗読ビデオが視聴できます。
Le cancer, Dejuner du matin, Le temps perdu,
Pour faire le portrait d'un oiseau, Etranges etrangers
Les poems または Videos をクリックします。右側に詩のメニューがでます。
http://programmes.france2.fr/hommage-a-prevert/accueil.php?numsite=304

(以上、アクサン省略)

4.11.2009

YouTube に、川越まつりをUP



 この英語版ビデオ「川越まつり Kawagoe Festival 」は、川越市の姉妹都市であるアメリカ合衆国セーラム市に、川越市在住の民俗写真家、宗形慧さんの写真が贈られることになり、それを契機に編集したものです。写真だけでは語れない川越まつりとその背景がアメリカの人たちにも分るように、それまでにマイクロメディアで撮影していた川越まつりのビデオを英語版に編集しました。そのため冒頭部分には川越市と伝統文化の説明が入っています。
 最近(2009年春)ではNHKの連続ドラマ「つばさ」で、さらに賑わっている川越市ですが、このビデオの撮影された1990年代前半は、いわば「失われた10年」の時代であり、一番街の人手でもさほど多くはありませんでした。経済的理由で、祭りに参加しない山車が幾台もありました。しかし、不況の時にこそ、お祭りは地元の人々で盛り上がるものです。まだ、暦どおりの日時で祭りが行なわれた時代であり、それだけに、観光客も今ほど多くはありませんでした。祭りの終わりに、「老人ばかりなってしまったと思っていたけれど、今日はたくさんの若い人たちが祭りに参加してくれ、まだまだここも捨てたもんじゃないと安心しました。」という内容の挨拶で締めくくられたことを覚えています。…そして、しばらく後には、祭りは土・日に変更され、安全のための警備も増え、…市庁舎に近い広場には、山車が揃うようになりました。
 今年の3月にJCIIフォトサロンで宗形さんの川越の写真展「川越 1979-2008」(モノクロ)がありました。そこに展示された写真の多くには、私が宗形さんとともに(撮影の補助としても)見て回った、かっての川越がありました。一番街の電線を地中化し、まつり会館を開設した市の力もありますが、菓子屋横丁に人力車を置き撮影スポットとし、広い店内には「三丁目の夕日」を思わせる昭和30年代の居間の再現など、ここを観光名所にしたてあげた田中屋さんの力、そして伝統の店を守った商人・職人の創意工夫、近郊の方々の伝統芸能、さらに東京に近いという江戸時代よりの地の利、これらがあってこそ、今の川越まつりのにぎわいがあるのだと思います。
 1990年代の古き川越まつりを、アナログの映像でお楽しみください。
 
宗形さん撮影の川越まつりの豪華な写真もお楽しみください。
今年の8月には、川越ゆかりの絵師、舩津蘭山の画稿を展示している蘭山記念美術館にて個展を開催いたします。展示内容が決まり次第、お知らせいたします。

川越まつり 曳きまわし


川越まつり 曳っかわせ


南田島の足踊り(川越まつりの山車にも出ます)

YouTube に eyediamedia チャンネルオープン!

 久し振りの書込みになってしまいました。このところ、ランボーを一休みして、ボードレールとマラルメを読んでいます。ランボーを時代の中で位置づけるには、ボードレールは重要な詩人ですね。
 目下、『ほつれゆく文化』(マイク・フェザーストン著 西山哲郎・時安邦治訳 法政大学出版会)を読んでいますが、なかなか読み終わりません。欧米(イギリス)からのポスト・モダニィズム(ポスト・モダン)についての本です。邦訳の出版はごく最近ですが、原書は1995年です。ですから、残念なことに911とイラク戦争以降についいての記述はないです。この本では、近代の代表者としてボードレールが取り上げられています。ロマン主義の破壊者としての近代性でしょうか。以下、有名な「旅」の第2段です。

              Ⅱ

恐ろしい! 私たちは回るコマと
跳ねるボールの真似をしている。眠っていても、
太陽を鞭打つ残酷な「天使」のように、
「好奇心」は私たちを悩ませ転がす。

奇妙な運命だ、目的地は移り行き、
おまけに、どこでもないから、どこでもよい!
希望に見捨てられることのない人間の運命は、
休息を求めて気狂いのように走り続けることだ!

私たちの魂はイカリア島を捜している三本マストの帆船。
甲板に声が響く:「目を開けろ!」
帆柱の見張り台が、熱く狂おしく、叫ぶ。
「愛だ… 栄光だ… 幸福だ!」 地獄だ! そいつは暗礁だぞ!

見張り番の男が知らせるどの小島も
「運命」により約束されたエルドラド。
大饗宴をひき起こす「想像力」も
朝の光には、暗礁しか見出せない。

おお、妄想の国々を愛する「哀れな人」よ!
蜃気楼が渦潮をさらに苦くするアメリカを
見つけたと夢想するこの酔いどれ水夫に、
鉄の枷をつけて、海に投げ込むべきか?

泥の中でもたついている年老いた放浪者のように、
上の空で輝く楽園を夢見ている。魔法にかけられた目は、
ロウソクがあばら家を照らしているところ
どこにでもカプアの町を見いだす。

 マラルメ、デュカス、ランボーは、これに続いたのですね。


 さて、私が参加しているアートサイト eyedia.com ではBBBというページで、私が撮影・編集したビデオなどを掲載してきました。ストリーミングビデオが普及し始める頃からで、分らないことも多く、多くの方に助けていただきました。でも、今では YouTube など、フリーの投稿スペースが充実し、画質も良い状態で見ていただくことができます。かっての flickr と同様、新しい世界的コミュニケーションツールとなりました。
 振り返って、1993年原宿ホコ天に、第1次湾岸戦争の空爆スクープで当時急速にメジャー化したアメリカのCNNテレビ局が発信アンテナも携えて取材に来ていました。世界のどこからでも自由に取材電波を送り出せることを、目の当たりに見て新しいメディアの時代を実感しました。「岬から岬へ、吹き荒れる極地から城へ、群衆から浜辺へ、眼差しから眼差しへ、…… 彼を呼び、彼に会い、彼を送り返そう。」と彼、詩人ランボーが夢見た新しい神=新しいメディアが実現し始めていました。個がメディアを持てる時代、個とマスが直接向き合えるメディアとして「マイクロメディア」を作りました。当時パソコンソフトで世界を席巻し始めていたマイクロソフトに名前を真似ました。正式名称は、Virtual Creates MICROMEDIA です。1997年、インターネットの普及とともにアート系マイクロポータルサイト eyedia.com を作りました。ここから分岐したのが、現在の私のサイト KunioMonji.com です。しかし、マイクロサイトからの発信は、画質的にもアクセス的にも限られてしまいます。質の高い画像・映像を、より多くの人に見てもらうために flickr につづいて、YouTube に eyediamedia チャンネルをオープンいたしました。
 皆様のアクセスをお待ちしております。

 最初に投稿したビデオは、最初に撮影・編集したスキービデオです。やや長いので、内容通り3部に分けてあります。詳しい説明は、各ビデオをご覧下さい。

■Poppy Snow by Snow Pop
●第1部 モノスキー・フリークス! Part 1- Poppy Hoppy Monoskiers!

さまざまなスタイルで滑るモノスキー・フリークスたち。




●第2部 スノボード池越え大会! Part 2 - Pond Jumping Snowboarding!。
日本初のスノーボード池越え大会です




●第3部 フリースタイル&モノスキー! Part 3 - Freestyle & Mono Skiing!
フリースタイラーの強風下の練習とスノーポップのモノスキーテストです。


3.14.2009

「美しくあること」と「女であること」

ランボーの「イリュミナスィオン」に、「 Being beauteous 」という詩があります。
 私は、「美しくあること」というタイトルに訳しました。beauteous の雅語を強調したら、「麗しくあること」でしょうか。ランボーが英語のタイトルにした意図は何だったのでしょう。このタイトルには様々な邦訳がなされています。

 さて、ネットの日本語版ロイターニュース「ロイター.co.jp」のピクチャーギャラリーに「Being a woman」という特集が掲載されています。「女であること」ですね。スライドショーをお楽しみください。

3.13.2009

デュカスの生地、モンテヴィデオのカーニバル


写真は、浅草のサンバカーニバル、夕方の山車 2006年8月26日

 日本は冬から春に、そして南半球は夏からそろそろ秋に。南米の夏と言えば、サンバカーニバル。AFPBニュースには、たくさんのサンバカーニバルが掲載されています。
 なんと言ってもリオのカーニバルが有名ですが、ウルグアイのモンテヴィデオのカーニバルもなかなか華やかなようです。モンテヴィデオと言えば、『マルドロールの歌』の作者であるロートレアモン伯爵、イジドール・デュカスの出生の地ですね。南米のカーニバルの山車には、巨大な動物や人間のオブジェが飾られたりしていて、どこか『マルドロールの歌』を連想させる感覚があり、おもしろく感じました。当時のモンテヴィデオの状況については、去年の10月に出た『マルドロールの歌』の翻訳者である石井洋二郎氏の『ロートレアモン 越境と創造』に詳しく書かれています。リオのカーニバルに関して言えば、1932年に始まり、1950年代に今のスタイルになったそうです。ウルグアイのカーニバルは、もっと新しいのかも知れません。でも、感性的に、巨大な動物のオブジェなどを見ていると、どこかデュカスの感性が解放されたような印象を受けてしまいます。『ロートレアモン 越境と創造』には、デュカスのフランスでの解放されない学生生活の有様が描かれていますが、カーニバルのダンサーや巨大な動物のオブジェなどを見ていると、デュカスの感性が裏返って解放されたような印象を受けてしまいます。
 なお、AFPBニュースは登録すると写真を拡大して見ることができます。多くの写真をスライドショーで見ることもできます。無料です。

★モンテヴィデオのカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2568984/3762779
リオのカーニバルのような女性ダンサー
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2567383/3748479
豹柄のボデイペインティングをし頭に羽を飾ったダンサー
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2567383/3748495
顔に奇妙なメイクを施したピエロ?たち
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2567383/3748508
頭に木の枝の付いた人形様のもの
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2567383/3748523

★南米のカーニバル
リオのカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2574626/3846456
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2575012/3851594
リオのカーニバル 山車の準備
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2572569/3810068
異様なデザインの山車
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2346329/2597213
リオデジャネイロのパレード準備風景
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2572228/3792243
サンパウロのカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2573618/3835402
ブラジル各地のカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2574195/3837106
オルロ(ボリビア)のカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2574254/3838430
エンカルナシオン(パラグアイ)のカーニバル
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2572043/3801505

現代の夏のウルグアイは開放的なところのようですね。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2580835/3904961

 それでは、お楽しみください。

2.05.2009

宗形慧作品展「川越1979-2008」

民俗写真家 宗形慧氏の撮り続けた川越のモノクロ写真の写真展です。




●期  間 2009年3月3日(火)~3月29日(日)
●開館時間10:00~17:00   ※ 入場無料
●休館日 毎週月曜日(祝・祭日の場合は開館)
●展示点数 約90点(全作品モノクロ)
●展示内容
 「歴史と文化のまち」として脚光を浴び、年間500万人もの観光客が訪れる川越。江戸時代、川越は北の守り神であり物資の供給地としても重要な役割を担っていた。新河岸川を利用した舟運は江戸との物流を確立し商人の町としても発展した。明治に入り大火に見舞われたが耐火性を重視した土蔵造りの店舗を建設し現在も残る蔵造りの景観を形成した。
 1979年から約30年川越を撮り続ける宗形慧氏は、川越まつりの時に感じる圧倒的な熱量と普段の町に流れる静のギャップに魅了され川越に移り住んだ。川越まつりや時の鐘はもちろん日々の風景まで、街に馴染んだ宗形氏だからこそ写せる唯一無二の川越の景色がそこにある。古さも新しさも大切にしながら進化を続ける川越の記録といえる作品約90点(すペてモノクロ)を展示。
※今回の作品展で展示される作品を収めた図録をフォトサロンにて販売いたします。
●所在地 東京都千代田区一番町25番地 JCIIビル1階 JCIIフォトサロン
                              TEL:03-3261-0300
      東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅下車、5番出口から徒歩3分
      http://www.jcii-cameramuseum.jp