
このセルフポートレートは、私が大学でフランス語でランボーを読み出し、やっと読めるようになったと自覚した少し後で撮影しました。
フランス語で読んだ「イリュミナスィオン」は、日本語の翻訳から夢想していたイメージの氾濫ではなく、イメージが崩壊するレアリテの氾濫として、私の前に立ちふさがってしまいました。消えてしまった脳内画像を再生するには、非言語的取得が必要と考えました。その方法として写真が選ばれたのは、私が子供の時から親しんでいたためでしょう。もちろん、同時にランボーを映像化したいとも考えました。主人公の見えない映画です。つまり、ランボー視点の映像のみ(あるいはランボーとヴェルレーヌの2視点のみ)で構成された映画。しかし、映画は特殊な機材が必要でもあり、私ひとりの手に負えるとも思えませんでした。ビデオも今と比べれば高価な割りに画質が不足していると思いました。写真はひとりでも容易に手の届くところにありました。写真を、被写体・構図・ライティング等の一連の定型化したシーンではなく、今までには見たことが無い画像、つまり既視感の無い画像として撮ることはできないかと、中学時代に考えたことも選択の背景にあったでしょう。
私の中学時代に、父は研究に当時ニコンから発売されていた全周魚眼レンズを使用していました。それを思い出してか、人の眼とは違う光学システムで外界から自分という個体を見ようと、覗き込むような気分で全周魚眼レンズでセルフポートレートを撮りました。描写も物の質感を拒否するために、トライXフィルムを使用し、メトール単現像液で40℃くらいで長時間(といっても40分から50分ぐらい)素粒子現像をしました。

大学卒業後、私は東松照明氏主催「ワークショップ写真学校」の、横須賀教室で写真の作り方を学びました。横須賀巧光氏はデジタル写真に挑戦せずに他界されました。彼の晩年の時には、当時のデジタル技術は、彼の映像の道具としては未熟だったかも知れません。でも、彼は授業で「やがて眼鏡のある部分を押せば、眼で見えたものがそのまま定着される時代がきっと来るよ」とも言っていました。私は、デジタル写真の究極の姿として、この言葉をよく思い出します。
セルフポートレートの初めの試みのしばらく後、横須賀さんのアドバイスもあり、全周魚眼レンズで自分を1年間毎日覗き続けてみましたが、そこには、もう多くのものは残されていなかったように思います。個は個であり、日常も文字通り日常であり、他には何もないことを写すしかなかったのかも知れません。

東松さんには「太陽の鉛筆」というタイトルの写真集があります。言葉の意味は「光(太陽)が描く物」という意味でしょう。彼は写真は「真」を写す物ではなく、その時に自分が立ち会った「今」を写す物「写今」とも言っていました。私は、ぱっと目で見たとおりのメモ書きという「紙とエンピツ」の写真と、意図的に構成しライティングして撮影する作り写真「画」とを、どちらをどのように追求すれば良いのか、迷いながら撮影し続けて来ました。しかし、デジタル化とデジタルカメラが発達し、今ではかなり多くの部分で私の悩みを消してくれたと思っています。根本的な問題は変わっていなくても、デジタル化により選択肢と画像処理の自由度が遥かに拡大し、悩みが軽くなりました。
話を元に戻しましょう。これらのセルフポートレートは、なんとなく興味本位というか、どんな風に写るか実験的に撮影しました。ランボーのセルフポートレートが直接のヒントではありません。ただ、ランボーがハラルで撮ったセルフポートレートは、本で見て知っていましたので、ヒントのひとつではあったと思います。。
この写真を撮ってから、もう40年近い時間が経ってしまいました。世の中は変わりました。日本は高度成長を成し遂げ、成熟した国となりました。現在、100年に一度の経済危機と言われながらも、実存も自己救済も大きな文学的テーマとして取り扱われないのは、それだけ豊かになったことだと受け止めています。他方、デジタル技術が進み、グローバルな文化の共有体験も可能になりました。
そして、フランス語でランボーを途切れながらも読み続けて40年経ってしまいました。「イリュミナスィオン」は、ほぼ読了していますが、翻訳はまだ完了していません。仕事や用事があれば、躊躇せずに作業を遅らせてきました。最近は生活環境の変化で、ランボーそのものが私たちの生活からは遠く離れてしまったように感じる時が増えました。ふと、図書館で見つけて借りてきた鈴村和成氏のメタフィクション「ランボーと8枚の写真」(2008年)を読んで、私自身のセルフポートレートを思い出しました。

「 普通の体格をした「男」よ、肉は
果樹園に吊り下がった果実ではなかったのか、 ― おお
子供っぽい日々よ! 体は浪費すべき宝ではなかったのか、 ― おお
愛することは、プシュケの危機か力か? 大地は
王侯と芸術家にあふれた斜面だった、
そして血統と種族が君たちを罪と喪へ
押しやった。この世は君たちの幸運と君たちの
危難。だが現在、あの苦労は報われ、君、君の計算と、
― 君、だが現在、あの苦労は報われ、君、君の計算と、
― 君、君の苛立ちは ― 固定されても、全く強いられてもいない、
君たちの踊りと君たちの歌声にすぎない、とはいえ
発明と成功の二重の出来事 + ある理由だが、
― 心象の無い宇宙における友愛に満ちた慎み深い
人類には、 ― 権力と法律が今ようやく評価された
踊りと歌声を反射している。」
(「青春時代 Ⅱ」/「イリュミナスィオン」/ランボー著/門司邦雄訳)
ところで、なぜランボーは本土よりアフリカに高価な写真機材を取寄せて、わずかな写真を撮影しただけで放棄したのでしょうか。母には手紙で、珍しい写真は高価な価格で販売でき、ひと財産作れるといった理屈をこねていますが、これは彼なりの言い訳なのでしょう。私がセルフポートレートを撮影した頃既に、ランボーは自分自身を他者として画像(写真)に定着してみたかったのだと、勝手に了解していました。ランボーは高価な写真機を手にしてから初めて、自分が撮りたいと夢想していた現実が退屈な日常でしかないことと、被写体が自分しか無いことに気付いてしまったのだと。未知だから実現してみたいという渇望は、水洗不良?等で不完全な結果にせよ、見てしまうことにより、輝きを失ってしまったのではないかと。写真に写った人物は彼自身がかって求めた「普通の体格をした「男」」の、詩後のいくつかの現実の姿でしかなかった。そして、母に送ったことで彼自身の写真への欲望は完結したのではないかと。
ボードレールの「旅」は、マキシム・デュ・カン( Maximre du Camp )に捧げられていますが、ランボーの生まれる2年前に、デュ・カンは中近東を旅行した時の写真集を刊行し、それがフランスにオリエント旅行への憧れを巻き起こしました。ランボーの頭の中にも、この時代の熱病の残滓があったことでしょう。













